「僕、明日になったら国に向けて出発するんです。でも本当はもっとここにいたいです」
訴える瞳は真剣だった。このままだと従弟は「帰りたくない」とぐずり、周囲に迷惑をかけるかもしれない。
そう思ったジゼルは腰を屈めて従弟と視線を合わせた。ここは自分がきちんと言い聞かせるべきだ。何しろジゼルは従弟より四歳も年上の“お姉さん”なのだから。「駄目よ。あなたや叔母様が予定通りに戻らなかったら、国同士の問題になるかもしれないの。そうしたら、みんなが困るわよね」
「……はい……」 「では、ちゃんと帰らなくてはいけないわ」夕日を浴びる従弟はうつむき、肩を落とす。その小さい姿はひどく哀愁を漂わせていて、ジゼルはなんだかとても悪いことを言ってしまった気分になった。
ただ、本音ではジゼルだってこの従弟とまだまだ一緒に遊びたい。それでジゼルは彼に言い聞かせると見せかけながら、実際には自分にも言い聞かせるために付け加えた。「そうね。次は、長く滞在する許可をいただいてから花の国へ来るといいわ。そうしたら私ともまたたくさん遊べるもの」
しょげていた従弟は途端に顔を輝かせた。
「僕、また来てもいいんですか?」
「もちろんよ。待っているから、必ず来て」従弟は両手を上げて「ぜったい来ます! 約束します!」と叫ぶ。周囲にいた帝国の召使が目を丸くしていたのが印象的だった。
しかしその出会いから二年後、隣国からもたらされたのは従弟の来訪ではなく「フラヴィが死去した」という手紙だった。
ジゼルも、ジゼルの父ピエールも大いに悲嘆に暮れ、王宮も暗い空気に包まれた。あの日々のことをジゼルはまだ覚えている。それから三年ばかり月日が流れた今日という日に、まさかこんなに嬉しいことが起きるとは。
「フラヴィ叔母様の息子、私の従弟殿! 今度はずいぶん長く滞在する許可をいただいてきたのね!」
「はい!」成長した四歳年下の従弟は満面の笑みを浮かべたまま、そして真っ赤な顔のままで長椅子から立ち上がり、優雅に頭を下げる。
「改めてご挨拶申し上げます。――僕の名前はライナー。今日からよろしくお願いします、ジゼル|義姉様《ねえさま》!」
五年ぶりに聞いたライナーの声はとても美しかった。
声質は柔らかく、鈴が鳴るように澄んでいて、天上の音色とはこういうものなのかもしれないと思わせてくれる。 こんな子が自分の弟になると考えると、たまらなく嬉しくてとても誇らしい。 一人っ子だったジゼルは弟妹の存在に密かに憧れていたのだ。ただ、気になることはあった。フラヴィはピエールの妹なのだから、ライナーは花の国の王族の血を引いている。ジゼルの義弟として王家の一員になることに問題はないだろうが、帝国側がすんなりライナーを手放した理由が分からない。
改めて問おうと父を見たジゼルは、こくりと唾をのんで口を閉じる。 父の表情はとても真摯だった。おそらく父は『ライナーがこの国に来たいきさつ』を話そうとしている。 ジゼルのその予想通り、ピエールが次に口にしたのはライナーに関することだった。「さて。ここからは他言無用といこうか。……ライナー、もう一度確認するけれど、君がこの国に来た理由をジゼルに話しても構わないね?」
「もちろんです、|義父様《とうさま》」気が付くとライナーも父と似たような表情をしている。正面に座る男性二人の真剣な様子を目の当たりにして、ジゼルの胸がどきどきと音を立てた。
「では、話そうか。――よくお聞き、ジゼル。実はライナーは『竜の子』という特別な出自なんだ」
「竜の子……」ジゼルが言葉を繰り返すと、ピエールは片眉をわずかにあげる。
「おや。その反応は知っていた風だね。もしかしてフラヴィから聞いていた?」
「……ええ。お聞きしていたわ」部屋に二人きり。この事実がジゼルの胸を早鐘へと変える。 互いにしばらく黙って見つめあい、先にライナーが動いた。彼はジゼルの元へ歩み寄って片膝をつく。「お騒がせして申し訳ありませんでした、義姉様」「いいのよ、気にしないで。というか、謝るのは私の方なの。何しろたくさんの勘違いをしていたんだから」 ジゼルもライナーと向かい合う形で両膝をつく。 そうして『竜の子』に関する誤解を話すと、目を丸くして聞いていたライナーは最後に小さく吹き出した。「義姉様が僕のことをそんな風に思っていただなんて、ちっとも知りませんでした」「私も自分がこんなに馬鹿だとは思わなかったわ。あなたが最初に来た日に、お父様からきちんと説明をしていただくべきだったと後悔しているの」 ジゼルに事情を話そうとした父を、勝手な思い込みで遮ったのはジゼルだ。「だから、改めて事情を教えてくれる?」「もちろんです。でも、少し長くなりますから」 立ち上がったライナーが手を差し伸べてくれたので、ジゼルはその手を取る。 誘われた先は室内の長椅子だ。ジゼルがいつものように掛けると、ライナーは正面の椅子へまわろうとする。 しかしライナーはぴたりと足を止めたかと思うと、少し悩んでから長椅子の空いた部分、ジゼルの隣に座った。 今までライナーがジゼルの隣に座ったことなどない。彼の初めての行動にジゼルは息をのんだが、ジゼルが驚いているのだと知られたらライナーは長椅子から立ってしまうかもしれない。 そう考えなおしたジゼルは努めて何気ない表情を装うが、顔はきっと赤くなっているだろうし、なにより胸の音がとても大きい。いつもなら誤魔化せるだろうけど、今日はこんなに近いのだから、ライナーに動揺が悟られてしまうだろうか。「では。義姉様にはまず、僕たちの母フラヴィの見た夢の話を聞いていただきましょうか」 隣に座ったライナーの口調はいつも通りで気負った様子がない。自分の方が年上なのに、自分だけがおたおたしているのはなんだか恥ずかしいなとジゼルは思う。 しかし二度ばかり深呼吸をしたところでジゼルは気づいてしまった。正面を見つめるライナーの耳はほんのり赤く染まっている。どうやらライナーも平静を装っているだけのようだ。 それが分かって思わず笑い、おかげで緊張はほぐれた。体から力を抜いたジゼルは背もたれにゆったりと体を預
ライナーの言葉を聞いてシュテファンが目を吊り上げる。「出て行け? ライナー、まさかお前は今『出て行け』と言ったのか? 私の聞き間違いだな? そうだろう?」 しかしライナーは黙ったまま動きだす。 まずシュテファンの襟元から菜の花のピンを取ると、次に左右の腕でシュテファンとブルーノをそれぞれ抱えた。苦笑するだけのブルーノはともかく、何やら騒ぐシュテファンは暴れているというのに、ライナーは平然としている。意外なほどの力だ。 そしてそのまま二人を持ち上げ、部屋の外へ放り出した。 召使いたちが一斉に避けた空間で、尻もちをついたシュテファンが呻き声を上げる。それを見ながらパンパンと手を叩き、ライナーが「皆さん」と呼びかける。「客人のもてなしを頼みます」「ライナー様」 進み出たのは、亡きピエールの側近くに仕えていた老臣だ。「帝国の方々には、どのようなおもてなしがよろしいでしょうか」「せっかくですから、蜂蜜酒を振舞っておいてください」「待て、ライナー。帝国では十八歳にならないと飲酒が許されない。忘れたか」 呼びかけるシュテファンに向かって、ライナーは肩をすくめてみせる。「花の国では十七から飲酒可能ですよ」「私は帝国の皇子だ。帝国の律に従う」「でしたら仕方ありませんね。――明日が来ないと酒が飲めない二人には、花茶と花風呂の用意をしてあげてください」「かしこまりました。お客人、どうぞこちらへ」「おい、離せ! 私たちの目的はまだ果たされていない!」 再び暴れようとするシュテファンだったが、花の国の召使たち、特に女性陣に取り囲まれた途端に身動きを止める。意外に紳士なのかもしれない。 代わりにシュテファンは背後を振り返り、叫んだ。「我らが帝国の騎士よ! 来い!」 しかしシュテファンの声に反応するものはない。「騎士たち! どうした、来い!」「もてなそうとする人々の前で護衛を呼ぶとは失礼ですよ。どうせ誰も来ないのですから、おとなしく花の国の歓待を受けてください」「……ライナー。お前、何をしたんだ? まさか」「そんなに心配する必要はありません。外で待機している帝国の人たちは後で呼びに行ってあげますよ。僕がもう一度、シュテファンのフリをしてね」「なんだと? 待て、ライ――」 言いかけたシュテファンがぎくりとした様子で口を閉じたのは、ライナーが
困惑して黙りこむジゼルに代わるようにして、部屋には陽気な笑い声が響き始める。ブルーノのものだ。「そういうことなんだよなあ!」「じゃ、じゃあ、ライナーの婚約者はどこに?」「婚約者なんて最初からいませんよ、女王陛下」「そんなはずはないわ。だって、ライナーには……」 そこから先を続けられずにジゼルは口ごもる。 ジゼルが『菜の花の女性』の存在を知ったのはライナーとピエールの話を立ち聞きしたからだ。さすがに自分の無礼を暴露するのは憚られた。「女王陛下が何を心配なさってるのかは知りませんが、ライナーは昔から『ジゼル様』一筋ですよ。ほら、これを見てください」 ブルーノが口元を歪めてライナーを見る。彼が取り出したのは一枚の紙だった。大きさは本の一ページくらいだろうか。一体何なのかと聞こうかと思ったのだが、それより早く横で「あっ!」と声が上がる。「ブルーノ! どうしてそれを!」「出かける前に俺の勘が囁いたんだ。これを花の国に持って行けば面白いものが見られるぞ、ってさ」「返してください!」「おっと」 慌てて飛び掛かるライナーをブルーノはひょいと|躱《かわ》し、そのままくるりと回ってジゼルに向かって紙を開いた。 紙には絵が描かれている。 上半分は青く塗られ。下半分は目にも鮮やかな黄色。 どうやら何かの景色のようだ。 これはどこなのだろうと目を凝らしたジゼルは、下半分の黄色が花であることに気が付いた。そして、絵の隅に小さく『ジゼル』と書かれていることも。(青い空と、黄色い花。……黄色い……菜の花……?) ジゼルの頭の中で一つの光景がよみがえる。 十三年前のあの日。 ジゼルは三日目に会った従弟と一緒に花畑を見に出かけた。 青い空の下で揺れるたくさんの黄色い菜の花を見て、従弟は歓声を上げていた――。 そこまで思い出したところでライナーが胸の中に絵を抱え込む。彼は恐る恐るといった様子でジゼルを振り返り、尋ねた。「……義姉様……見ましたか……?」「……見たわ」 呆然と呟くジゼルはシュテファンへ視線を移す。 最初に“ライナー”としてこの部屋へやって来た彼が身に着けているのはライナーの服。最近のライナーがいつも着ている、花の国の白い騎士服だ。そして騎士服を着る前から身に着けている菜の花のピンが襟元にある。「……菜の花……」 菜の花。ライナー
彼女はにこりと微笑んで口を開く。「あなたは従弟が『竜の子』でも仲良くしてくれるかしら?」 覚えのある言葉。十三年前に聞いた言葉。いまジゼルの目の前にいるのはきっと、過去のフラヴィの幻影だ。「あなたが仲良くしてくれたあの子は、『竜の子』だけど皇帝にはならないの。――今回はかなり変則的なことが起きているのよ。帝国の長い歴史を紐解いてみてもありえなかったことが、ね」 叔母が語ってくれた言葉をの意味をジゼルはようやく理解した。 フラヴィは正気を失ってなどいなかった。 ライナーは庶子ではなかった。 十三年前に会った従弟は一人ではなかった。 ライナーと並んで立つ叔母の幻を見ながら、ジゼルは心の中で「ごめんなさい」と呟く。(私はつまらない思い込みで、ずっと叔母様たちに失礼をはたらいていたわ……) フラヴィは美しい笑みを浮かべたままゆっくりと首を左右に振る。最後に「私の子と仲良くしてあげてね」と言って姿を消した。 夢現の境も分からない不思議な気分のまま、ジゼルは口を開く。「私はずっと、叔母様と一緒に来た従弟は一人だと思ってたの。一人の従弟と三日間会ったんだ、って。……でも、違っていたのね。十三年前に私が会った従弟は三人。私は一日ごとに違う相手と会っていた。そうなんでしょう?」「はい、義姉様。仰る通りです」 一日目に会った不愛想な従弟。あれはきっとシュテファンだ。 二日目に会った元気な従弟。あれはブルーノに違いない。 そして。「僕は三日目に、義姉様とお会いしました」 三日目に会った従弟。細やかな心の持ち主で、ジゼルともとても気が合い、「お別れ、したくないです」と言ってくれた彼。やはりあれがライナーだったのだ。 ジゼルは目の前のライナーを見つめ、泣きそうな気持ちで彼の頬に向けて指先を伸ばす。 今にして思えばジゼルは、あのときからライナーに惹かれていた。(……だけど) ライナーの頬に指が触れる直前、ジゼルは手を握りしめる。二歩ほど後ずさりすると、繋いでいた手も離れた。「……義姉様?」 眉尻を下げたライナーの顔を見てジゼルの胸が痛む。 だが、ライナーには昔から想い続けている『菜の花の女性』がいる。ジゼルが触れて良い相手ではない。 唇を噛んだジゼルがライナーから顔を背けると、固まっていたはずのシュテファンがこちらを見ていた。書面を解読し
「――我はこれよりそなたを息子と認めたりしない。どこへなりとも行って己の意のままに暮らせ。ただしその場合、帝国の地は二度と踏めぬと心得よ。己の血を裏切る代償が大きかったと嘆く日がこようとも、我はそなたを許すつもりはない。五歳のときからずっと『ジゼル様が、ジゼル様の』とうるさかったそなたはどうせ、父よりも、兄弟よりも、帝国よりも、花の国とその女王の方が好きなのであろう。父のことより『ジゼル様』の名を呼ぶ方が多い色ボケ息子ライナーなんか、いなくなったところで寂しくもなーんともないわい、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう――」「ブルーノ! その辺でいいでしょう!」「まだ先は長いんだけどなあ」 ジゼルを気にしながら真っ赤になって叫ぶライナーとは対照的に、ブルーノは涼しい顔だ。「『息子と認めたりはしない』とか言っておきながら『色ボケ息子』なんて言う辺り、息子と認めないのか、息子なのか。さっぱり分からないのが父上らしいね。……それにしてもこの先は文字が滲みまくってるなぁ。父上も書面の上で泣くことはないだろうに。そもそもそんなに悲しいなら、ライナーを皇宮へ閉じ込めておけば良かったんだ……」 ぼやくブルーノの声を聞きながらジゼルは繋いだままのライナーの手を引き、彼の耳元で囁く。「さっきから気になってたんだけど、皇宮って、帝国の皇帝が住んでおられる場所……よね?」「はい。そうです」「だとしたら父上っていうのは……まさかとは思うけれど、その……」「皇帝です」「……じゃあ……あなたは……いえ、あなたたちは……」 その先はうまく出てこなかったが、ライナーには伝わったようだ。彼は数度瞬き、小さく首を傾げる。「義姉様は僕たちの母から『竜の子』に関する話を聞いたのですよね?」「……お聞きしたといえば、したのだけれど……」 『竜の子』に関するジゼルの認識は『帝国の皇帝の庶子』だ。 帝国の皇帝は竜帝とも称される。そのため皇帝の戯れの相手となった女性が皇帝の子を産むと、その子たちは『竜の子』という隠語で呼ばれるのだろう、と。 ジゼルが読んだ花の国の記録には『フラヴィは帝国貴族の元へ行った』と書かれていた。 だからジゼルはフラヴィが嫁いだ先は帝国の貴族だと思った。そこで皇帝に見初められて子を宿し、誕生したライナーは『竜の子』となって、名目上の父である貴族から冷遇されて
「やはりライナーはお返ししません。帝国へ戻りたいのならお二人だけでどうぞ」 ほう、とシュテファンが低い声を出した。「女王は、我彼の戦力比が分からないと見えるな」「この大陸で帝国との戦力比が分からない国なんてないでしょうね」 一対一で見るのであれば、どんな国であっても絶対に敵わない。それほどまでに帝国の力は比類がない。「なるほど。分かった上で帝国へ盾突くつもりか。その度胸だけは褒めてやる」「嫌ですわ。盾突くなんて、そんなこと致しません」 凄みのあるシュテファンの表情と言葉を、ジゼルは微笑みで受け流す。「ですが、そうですね。もしも帝国が力づくでライナーを取り戻そうと動くのなら私は、花の国と取引がある国々へ事の経緯を説明いたしますわ。『帝国というのはその強大さを振りかざし、他国の意思や道理を無視する国だ』と知ってもらわなくてはなりませんもの」「……脅しのつもりか? そんなことで周辺国がこの国を守るために力を貸してくれるとでも?」「いいえ。でも、これは種になるかもしれませんわね。そうして種はいずれ芽を出し、花を咲かせるのです」 強大な帝国が昔のように力で道を曲げ始めたとしたら、他の国々はどう考え、何を準備し、いかなる対応に出るのか。 ジゼルが言外に籠めた理由を理解したのだろう、苛烈な目でシュテファンが睨みつける。「……吹けば飛ぶような小国の癖に、生意気な」「おい、落ち着けよシュテファン。女王陛下も、どうか」 割って入ったのはブルーノだ。「少し時間を置こう。そうだ、どこか場所も変えてだな」「その必要はありません」 ジゼルの背後にいたライナーが進み出た。思わず押しとどめようとしたジゼルだが、彼の瞳に宿る揺るぎない力がジゼルを制する。「シュテファンが引き下がればいいだけの話です」「引き下がる? そんな必要がどこにある」「父上は折れてくれましたよ」「そんなありえない嘘をつくとは見苦しいぞ、ライナー」「嘘ではありません」 酷薄な笑みを浮かべるシュテファンに向け、ライナーは懐から取り出した一枚の紙を差し出す。「これが証拠です」「なんだ、それは」「父上から絶縁状として渡されたものです」「は?」 目を見開いたシュテファンが、雷に打たれたかのように大きく震え、硬直する。「ぜつえん……まさか……父上、が……ライナーに……そんな……」